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Ballet Doors

レヴェランス

~ごあいさつ~

<想像力の扉を開くために>

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1765年にウィーンの宮廷で催されたバレエ。右端の女の子は、のちにフランス王妃となるマリー・アントワネット。左端は兄のフェルディナンド、真ん中が弟のマクシミリアン。宮廷舞踊の様子を伺える絵の一つです。

 もう10年以上前になるでしょうか。あるバレエ教室の発表会に向けて、子どもたちの指導のお手伝いをしたことを思い出しています。創作作品、小品集、そして、古典作品からの抜粋というプログラムで、その小品集の中にメヌエットがありました。

メヌエットを踊った生徒さんたちは、小学校中学年から中学生くらいの年齢でした。メヌエットという舞踊は、17世紀半ばから18世紀のフランス宮廷で貴族たちによって踊られていました。この発表会では、ロシアのバレエ学校で習う歴史舞踊のお披露目という位置づけで、古典バレエのステップを取り入れつつも、宮廷の雰囲気を漂わせる踊りに仕上げられていました。

一般的な「バレエ」という言葉が私たちがイメージするような、トーシューズを履いて、ピルエットを回ったり、高く飛んだりというステップで構成されているものではありませんでした。私自身、少しだけバロックダンスを学んだことがありますが、バロックダンスの踊りの基本(本来の踊りの基本の姿)は、「歩く」ことです。メヌエットも、歩く延長上にある踊りですので、私には、踊り以前に、子どもたちの歩き方が気になりました。そこで、先生に許可を得て、メヌエットの踊りの歴史的な背景やどんな衣装で踊ったのかということをお話しすることにしました。

まずは、踊る以前に、レヴェランス(あいさつ)の仕方などの礼儀作法が重要だったことをお話しし、フランスのヴェルサイユ宮殿の広間の写真を見せながら「メヌエットはこういう場所で、美しく着飾った貴族たちが踊った踊りなのよ」と話すと、子どもたちの目がきらきらと輝きました。

「では、この写真からちょっと想像してみましょうか。この床は、バレエを踊るために準備された木やリノリウムの床ではないでしょ?靴も少し踵の高い靴を履いて、頭には少し重いかつらと髪飾りがついていますよ。胸は大きく開いていて、ドレスの幅はとても大きくて、動くのは簡単ではありませんよ。そして、胸元に大きな宝石のネックレスを付けてみましょう」と説明してみました。

すると どうでしょう!子どもたちの立ち姿がどんどん変わるではないですか!最初は、猫背だった子どもたちの姿勢がみるみると背筋が立って、デコルテが綺麗に開き、まるで貴婦人のように変わってゆくではありませんか!

次に「滑る床をかかとの高い靴で歩いてみましょうよ。しっかりとかかとやつま先を意識しないと転んでしまいますよ」とお話しすると、子どもたちもとても良くわかってくれたようで、「メヌエットの練習の時に、先生(私のこと)のお話を思い出しながら、やってみます」とまたきらきらな笑顔で応えてくれたのです。

バレエは、ヨーロッパ発祥です。私たちが住む日本という国で誕生した舞踊芸術ではありません。ですから、歴史、風土、生活習慣の違いなどを知ることは、踊る上でとても重要なことだと私自身は強く感じています。

私は大学に所属して研究活動をしているような学者ではありません。長年、バレエという西洋舞踊を学び、深く知るために歴史を研究し、同時に、実技の面でもバロック・ダンスやモダン・ダンスのマーサ・グラームのメソッド、ドイツ表現主義のクルト・ヨースのメソッド、フランスでの短い滞在中に、まったく違うスタイルのコンテンポラリーダンスを二人の先生について学びました。

バレエから始めてさまざまな舞踊のスタイルを学ぶ中で、舞踊の基本は、どんなスタイルであっても「きちんと立つこと」、「美しく歩くこと」だということにも行きつきました。それは、歴史に残る舞踊の教科書にもきちんと記されていることです。そして、心を解放して、音楽を感じ、リズムやメロディーが動きと一緒になった時に、芸術的な舞踊の感動が生まれるのではないでしょうか。

このBallet Doorsは、あらゆるバレエを愛する人たちに、想像力の扉を開くお手伝いをすることを目指しています。私の責任の持てる範囲で正しい情報をお伝えします。ありがたいことに、音楽、美術、演劇など、各方面に専門家の友人がおりますので、私自身も学びつつ、皆様と学び合いの場が持てることを目指します。参考文献、参考映像資料などもお伝えしてゆきますので、より専門的なことを知りたい方は、どうぞ参考になさってください。

著作権の問題がありますので、You Tubeなどの映像は使いません。文章の流れの中で、見るとより実感できるような映像に関しては、購入可能なDVDのご紹介をいたします。

まだまだ研究途中のことが多く、難しいこと、よくわからないことだらけですので、書き直したり、新しい見解に出会ったときには、その都度お知らせしたいと思います。それがWebで書く記事の利点です。書物になって出版されてしまうと、「あ、間違えたから、書き直したい!」と思ってもそうそうできません。

さてさて、前置きはこの辺にして、どうぞバレエの時空の旅の扉を開けてみてください!

Ballet Doors 開場のお時間です!

池田 愛子

Ballet Doors とは

踊るバレエ史ナビゲーター池田愛子公式ページです。
Ballet Doorsは、私が手作りしたバレエ史紙芝居をもとに、
より多くの人にバレエ史を身近に感じていただきたくオープンいたしました。

バレエ史や舞踊史に関する書物はたくさんあります。
それらの文献をもとに楽しく、面白く、わかりやすくお伝えすることを
目指しています。しかし、さまざまな書物を読む中で、
研究途中の不確実なことも多く、私自身が「よくわからないこと」がたくさん出てきます。

このブログでは、史実とか事実として研究されてきたことを
私のできる範囲で整理し、お伝えするためのものだとお考え下さい。
私自身、学び続け、間違ったことを訂正しながら、皆様にバレエの世界を
体感していただけるように努めます。

このブログを書くために読んだ資料、史料等も徐々にご紹介する予定です。
ご意見、ご質問も受け付けております。

 

aiko ikeda

池田 愛子 プロフィール

札幌出身。学習院大学文学部史学科修士課程単位満了退学。
3才から札幌舞踊会にて、金沢美智子、千田モト、千田雅子の指導を受け、二児出産後からは東京で内藤瑠美に指導を仰ぐ。研究は、大学学部時代に、ディアギレフ「バレエ・リュス」を中心にバレエ史研究を志す。 1991年より長谷川六編集長のダンスワークにて執筆開始。 1992年から93年までフランス・ランス市にあるブリジット・カノンヌ主催の ダンスカンパニーLicorne付属ダンス学校でプロフェッショナルコースを受講。 カンパニー主催定期発表会にて、ソロ作品『一期一会』とデュオ作品『和』を発表。 1993年に帰国後、DVDの解説として~モーリス・ベジャール『アダージェット』、 『英国ロイヤル・バレエの夕べ』、『ソ連バレエの軌跡シリーズ』など。インタビューに、デヴィッド・ビントレー前新国立劇場芸術監督、バーミング・ロイヤル・バレエ団プリシパル、ツァオ・ツィーなど。 現在、クラシックバレエを笹原進一、原田秀彦、バオソルを佐藤健司、クルト・ヨース・メソッドを市田京美から指導を受ける。クラシック・バレエにおける研究と実践の融合を目指し、バロックダンスを臼井雅美のもとで学ぶ。また、IBMA(国際ボディメンテナンス協会)認定ストレッチアドバンストレーナー資格を取得し、トレーナーとしても活動。

プティパ生誕200年記念!

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久々のブログです。いろいろと変化がありまして、文章だけで伝えるより私はお話しする方も充実させたいと思い、Ballet Doorsのライブ版として、「パール会」なるおしゃべり会を企画しました。やはり、自分としては面と向かってお伝えするのが、理想的かなと思っております。

でも、このように文章にして記録すると残るわけで、いつでもだれでもアクセスできるという利点もありますね。少しずつブログの語り口も口述するようにできると良いのかな、と考えたりしています。

今回は、今年が2018年ということで、バレエ史的にはどうやら記念すべき年なのですよ。ここのところ、ロシアとか東京でも、そういえば「プティパ生誕200年祭」とか開催されてる~となんとなく横目で見ていました(笑)バレエ史屋しっかりしろ!と思いまして、書いてみようかなと思います。

では、マリウス・プティパって?

プティパというのは、バレエを少し知ってる方ならご存知とは思うのですが、マリウス・プティパというフランス人の振付家で、ロシアに渡り人生のおそらく3分の2はこの国のバレエの発展に貢献した偉大なる人物であります。

プティパが1818年生まれであることは間違いないと思いますが、資料によっては1822年とかあったりします。昔の人は、サバ読むというか、あまりその辺気にしないのかな~と思ったりします。出生証明書とか、プティパのってどこにあるんだろうとか、そんなことが気になるのが歴史屋なんです。生まれがマルセイユだからマルセイユのどこかに残っているのかしらとかね。

世の中的には、プティパの作品を再確認し、プティパへのオマージュといったようなイベントが多いようです。もちろん、私だって毎日のように「プティパってすごいわ~」って思います。今見られる古典のバレエ作品のほとんどが、ヨーロッパで生まれた『パキータ』、『海賊』、『ジゼル』や『コッペリア』なども、ロシアでマリウス・プティパの手で改訂されて、新演出されたものなのですから。プティパがいなかったら、今の古典バレエの世界なんて色あせていたと思うんですね。

私の個人的なプティパの関心と言うのは、その偉大さというよりは、「優れたダンサーではなかった」」ということや「スペインの決闘」が一番、プティパの人間的な一面を感じさせるとことなんですね。プティパ自身は、かなり自分の踊りに自信があったようですけどね。「プティパが優れたダンサーではなかった」と言うことに関しては、「バレエの神様になんてこと!」と思われる方も多いでしょうが、プティパの弟子プラトーン・カルサーヴィンが娘のタマラ・カルサーヴィナにその様子を伝えています。カルサーヴィナ自身も「象増力豊かな演出家」で「教師としても一流」と評価しつつ、「優れたダンサーではなかった」と書いています。

ただ、この時代における「優れたダンサー」がどのようなダンサーであったかということも考える必要がありますね。プティパのお兄さんのリュシアンは、ロマンティック時代を代表するダンスール・ノーブル(気品のあるダンサー)として、パリ・オペラ座で大活躍をしていました。一方、弟のマリウスはパリ・オペラ座には縁がなかったのです。そこから何が読み取れるでしょうか。

新書館のサイト~https://www.shinshokan.co.jp/book/4-403-23034-2/

新書館さんから出てます『マリウス・プティパ自伝』とタマラ・カルザーヴィナというロシアのバレリーナの自伝『劇場通り』を読んでいただくと、プティパのプライベートな生活やチャイコフスキーとどのように『眠れる森の美女』を作ったかというプロセスなども書かれていて、とっても楽しいです。帝政ロシア時代のバレエ団やバレエ学校の雰囲気が日本語で読めるので、私の大切な助っ人であります!

そうそう、この冬一般公開のニコライ二世の愛人だったバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤを題材にした映画『マチルダ』をご覧になりたい方は、『劇場通り』を読んでおくと、すごく面白いですよ。「あのシーンは、マチルダの話じゃなかったんだ~」とか、わかりますよ。

http://www.synca.jp/theatricals/detail/52

マチルダもプティパの作品に良く出演したバレリーナの一人です。皇帝の愛人で、身を引いてからもかなり権力を持っていました。そのために、いろいろとバレエ団の運営や創作現場でも口出しするので、なかなかプティパも大変な目にあったようですが、その辺もプティパの自伝に書かれています。

次回は、非常にロマンティックな、いとしい人を巡って起きてしまった「スペインの決闘」についてお話しします。ちょっと『ロミオとジュリエット』のバルコニーが現実的になったような感じで、しかも、男性が二人かちあってしまって決闘になるという話なんです(笑)もちろん、その男性の一人がプティパです。

 

 

 

蘇った『フジタの白鳥』  ~愛子の小部屋vol.4

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          ~東京シティ・バレエ団の満を持しての上演~

 待ちに待った藤田嗣治の舞台美術復元による『白鳥の湖』上演に3月4日立ち会った。東京シティ・バレエ団の創立50周年記念公演として、芸術監督の安達悦子氏の言葉(公演パンフレットの「あいさつ」から)によると「満を持しての上演」とのことだ。

今回の藤田嗣治の舞台美術による『白鳥の湖』の実現への歩みは、2013年にさかのぼる。この年に、芸術監督安達悦子氏と藤田の舞台美術の研究者佐野勝也氏が出会ったのだ。戦後間もない1946年、日本で初演された『白鳥の湖』でオデット・オディールを務めた松尾明美さんという舞踊家を偲ぶ会が2013年に開催されたとのこと。その場で安達氏と佐野氏により「フジタの夢の実現プラン」構想が誕生し、5年の歳月をかけて藤田の舞台装置による『白鳥の湖』が産声を上げたのだ。その勢いは、まるで1946年4月23日の藤田の甥蘆原英了宅二階での会合で、日本バレエの創成期を担った舞踊家たち~東勇作氏、貝谷八百子氏、服部智恵子氏、島田廣氏、小牧正英氏~が集まり、東京バレエ団結成と同時に『白鳥の湖』全幕の日本初演を決意した瞬間のように感じられる。この会合から、まさかの3か月後に、このバレエの上演が実現することとなった。想像してほしい、1946年8月の敗戦後の日本の風景を!

物資がないどころではない。国は荒れ果てて、戦争で心も体も疲弊しきった人々、戦前戦後の価値観の崩壊、私たちには想像もできない世界で、このバレエの上演がどのような光を与えたかと想像しつつ、開演を待った。

少し早めに会場に着いたので、パンフレットはもちろん購入し、普段はあまり足を向けない物販コーナーを眺めた。『フジタの白鳥』という本、宇野亞喜良氏のイラストの本が目に飛び込んできた。その本に引き寄せられカウンターを見ると、美しい舞台美術の絵の載った論文らしき体裁のものがディスプレイされていた。

「見せていただいていいですか」と書籍を売っていた男性(のちに『フジタの白鳥』を出版された原島康晴さんと知った)に伺い、藤田の舞台美術が描かれたページと1946年初演のオデットと王子の写真を見つめた。1946年初演の『白鳥の湖』に関しては、私自身一昨年前から日本のバレエ史を少し研究し始めていたので、初演のオデット・オディールを松尾明美、東勇作組と貝谷八百子、島田廣組のダブルキャストだったことは知っていた。

松尾明美さんの写真から「これは貝谷先生ではないですね」と思わず書籍売り場の男性に聞いてしまった。「タイツが違うんですよ」というその男性の返事に、私のマニヤックな心に火が付いた。そうだ!女性はGHQのおかげで、アメリカ製のタイツやシューズが手に入ったということや男性は、股引などをタイツ代わりにしていたというお話しを島田先生の文章や25年以上も前に前東京シティ・バレエ団の芸術監督だった石田種生先生、また戦後の日本でバレエ芸術発展に貢献された方たちからも伺っていた。

そのような話をしているうちに、書籍売り場の方が藤田の舞台美術の研究者佐野さんと親しい関係ではないかと勘が働いた。人の言葉や表情には、たくさんの思いがあふれていて、そのような人と話をするのはなんとも満ちた時間だった。私は佐野さんと言うひとを全く3月4日まで知らなかった。でも、彼が記した論文、著作、そして、友人の言葉からすさまじいエネルギーを持った演出家だったということが理解できた。そして、彼がこの舞台を見られないことも休憩中にパンフレットを読み知った。

舞台は、演者がいないと成立しないものではあるけれど、それ以外の音楽、美術、衣装、舞台監督チームが一体となって作り上げなければ成立しないものである。

「堀尾さんの復元がなかったらできなかった」という原島さんの言葉が残った。堀尾さんとは、佐野さんの研究をもとに、今回の舞台美術の製作をされた方で、歌舞伎やオペラ、演劇など幅広い舞台美術を手掛けている方だ。ちょうど、最近ゴッホの映画でゴッホの絵画の復元に携わった古賀陽子さんとも知り合ったばかりで、表には出ないアーティストの存在が必ずどの分野にもいるわけで、その人たちがいなければどんな舞台、映画、演劇は成立しない。

その表舞台には出ない人たちのすさまじいエネルギーが、藤田の舞台美術と大野和士氏の音楽構成、そして、東京シティ・バレエ団による舞踊によって見事に「総合芸術」として蘇った『白鳥の湖』に圧倒された。第二幕、四幕の森の木々、一枚一枚の葉の質感からは、静かではあるがむせかえるような香気が漂っていた。第三幕のビロードの質感からは宮廷の絢爛さが伝わってきて、全幕通して背景が迫ってくるような感触があった。湖は、底なしに吸い込まれるような奥深さを感じさせた。特に秀逸だったのが、石田種生先生の第四幕の音楽の使い方と群舞のフォーメーションの妙。まるでオデットが王子に許しを与えるような踊りのシーンで、チャイコフスキー・パ・ド・ドゥのアダージオが優しく流れた時には、打ちのめされた。最後は、白鳥達が悪魔の魔力から解放され人間の姿になり終幕。

今回の公演は、あえて日本人の主演の日を選んだ。もちろん、ゲストダンサーで見るのも良いのだけれど、「カンパニー」として日頃から一緒に稽古しているチームの舞台が見たかった。今回のオデット・オディールの大役を務めた中森理恵さんは、個人的に非常にこの役をしっかりと踊り切ったと感じた。「演じる」ことも大事だけど、演技をあまりされると下手に感情を乗せすぎて、表現の本質が失われることが多い。

しかし、中森さんは音楽と動きに忠実に、派手なテクニックを見せびらかしもせず、丁寧にポジションを明確にするだけで、彼女の体のラインがその役柄を見事に表現していたと思う。道化役が、しっかりとしたテクニックで作品の支柱となっていた。群舞のアンサンブルも見事に踊り込まれていて、安達悦子さんのディレクションの賜物と感じた。

四幕観終わり、1946年8月の日本に心がタイムトリップした感覚だった。当時、その舞台を「見られるチャンスを得られた」人たちは、ごくわずかだったことだろう。敗戦後の日本で、このバレエが連日満席の大盛況で、17日間の公演予定を延長し22日間のものロングランとなった事実を私たちはどのように理解し、今後の日本のバレエ文化につなげることができるだろうか。そんなことを想いながら会場を後にした。

2018年3月4日 東京文化会館にて所見

☆『フジタの白鳥』 佐野勝也著 発行者:エディマン

http://edimantokyo.com/books/9784880084657/

☆フジタの美術を復元し、上演した様子はこちらの東京シティ・バレエ団の特設サイトから見られる。

http://tokyocityballet.com/swanlake/

 

 

愛子の小部屋vol.3 新しい年2018開幕🎵

新春は母を想う時間🎵

皆さま、2018年あけましておめでとうございます。年末年始をいかがお過ごしでしたでしょうか。
私は、恒例のお節料理を作りながら、料理の手ほどきをしてくれた母のことを思い出し、浜松の大学に通っている娘も帰省し、家族との時間をゆったりと過ごすことができました。
昨年一年を無事に過ごすことができたことに感謝し、今年もまた新たな一年をやはり<身体第一>で過ごせたらと思っております。

2018年の開幕に向けて、何を皆様にお話ししたらよいかといろいろ考えておりました。
このブログのタイトルがBallet Doors ということもあり、家人から「あなたがバレエの扉を開いた話でもいいのでは」というアドヴァイスを受け、それなら母のことを書こうと思いました。
非常にパーソナルなことではありますが、誰にでも両親がいての今があるわけで、ある意味、誰にでも共通するお話でもありますよね。
生前は父との方が相性が良いと思っていたのですが、母が亡くなってからは母のことばかりを想う日々です。
亡くなってもう5年も経つのに、いまだに携帯電話のアドレスを消せないでいます。

私のバレエの扉を開いたのは母でした。
札幌舞踊会というバレエスタジオに3歳の時に入門しました。
彼女の友人でとても教育熱心なママ友がいました。その友人が自分の娘にバレエを習わせたかったのですが、「誰かお友達といっしょじゃないと嫌だ」ということで私の母に相談したようです。
その当時、私には兄弟がいなかったので母は「集団で何かをするためにバレエは良い」と思い、習わせたそうです。
私は最初のころ泣いてばかりいて、金澤美智子先生のそばで、クラスをじっと見ていた記憶があります。そのうち、一緒に習ったお友達はいつの間にか辞めてしまい、私はもともと音楽に合わせて体を動かすのが好きだったのか、同じ年頃のベビークラスのお友達と一緒にいつの間にかバーにつかまってレッスンを受けていたみようです。

初舞台は、4歳の時に『くるみ割り人形』でネズミの役でした。
とにかくネズミの王様の大砲の音が怖くって、「本番中に泣いて幕に戻ってしまったのよ」と母から聞かされたものです(笑)次の舞台が5歳の時です。
『眠れる森の美女』のベールを持つ少女。下の写真で、一番最後尾でベールをじっと見ている子が私です。この時の主演オーロラ姫を演じたのは、今やバレエダンサーの登竜門とも言われるローザンヌ・コンクールで東洋人初のプリ ・ドゥ・ ローザンヌを受賞した吉田尚美さんでした。
本当に素敵で、素敵で、素敵すぎてベールを引っ張ってしまって、「愛ちゃん、首が苦しいから引っ張らないでね」と注意されたのに、尚美さんに注意されたことが嬉しくて興奮していたことを思い出します。

ちなみに、吉田尚美さんには思春期になってもお世話になりました。
辛くて苦しかった『ラ・バヤデール』の影のコールドのリハーサル中に足をつってしまって困っていたら、マッサージしてくださって、「ちゃんとお風呂で足を温めて寝るのよ」と教えてくれたことが深く心に残っています。
彼女は、受賞後、私の記憶ではまだ生前のバランシンの元で研鑽をつみ、その後渡欧され、スイスのバーゼルのバレエ団、そして、ドイツのシュツットガルト・バレエ団でご活躍されました。
尚美さんがスクール・オブ・アメリカンに留学された帰国後に踊られたバランシン振付の『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』は忘れられないパフォーマンスです。

もう一人、同じ札幌舞踊会の大先輩でシュツットガルト・バレエ団で活躍された方がいます。
大口純枝さんとおっしゃる方で、ご主人がフランス人のアルノ・コストさん。
息子さんたちもバレエダンサーとして現在ご活躍です。少し話はそれますが、このお正月のビッグ・イベントの一つが、この大口先生のバレエクラスを受講できたことでした。レッスン中に大口先生が指導する姿に思わず胸に熱いものが込み上げました。
美しいデモンストレーション、技術的な指導はもちろん素晴らしかったのですが、何よりもダンサーとして最も大切なこと~レッスン中でも表現することを忘れない~ということを10代の生徒さん達には特に伝えていらして、先生のキラキラした姿がまぶしかったです。
そして、その時間と空間を共有できた喜びを思わずレッスン後に先生にもお伝えしてしましました。

「札幌舞踊会出身なのです」とお伝えすると、「え~~~、どなた?いつ頃?」と気さくに聞いてくださって、「1977年から83年まではかなり真剣に踊っていました」とお伝えすると、「じゃあ、一緒にいたわね」と優しくお話ししてくださいました。
現在はストラスブールのコンセルバトワールでご指導されているということで、先輩たちが世界のバレエ教育の現場でご活躍されていることを誇らしく感じました。

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さて、こんなことばかり書いていたらいつまでもお話が終わりませんが、バレエの思い出は常に母と一緒にあることが、改めてわかってくるのですよね。10代のころに見た『愛と喝采の日々』、マーゴット・フォンティンとルドルフ・ヌレエフの『白鳥の湖』や『ロミオとジュリエット』、ソ連のガリーナ・ウラーノワの『ジゼル』などのバレエ映画も母が見せてくれました。札幌にはめったに来ないソ連三大バレエ団や松山バレエ団のバレエ公演も一緒に見ました。
若き森下洋子さん、清水哲太郎さんの『ドン・キホーテ』は、昨日の出来事のように鮮明に蘇ってきます。札幌で最後に一緒に見た舞台は、なんとジョルジュ・ドンの『ボレロ』でした。母もいたく感激して、翌日も立ち見で無理やり入れてもらって当時厚生年金会館だった二階席からあの円卓に舞うドンの姿に魅了されました。

母は昭和18年生まれの四人姉弟の長女でした。
生まれたのは東京でその後、祖母の実家のある北海道に移住。戦後の貧しい日本という時代に少女時代を過ごしたのです。きっと習い事もしたかったことでしょう。もしかしたら我慢していたのかなと思えるようになったのは、肺がんで病床に就いてから、母と女子トークを本音でするようになってからです。
亡くなる直前まで「あなたは踊っているのが一番いい」と私に言っていて、「あなたは夢を追っていてほしい」とも言っていました。

プロになるのはあきらめたけれども、日本でバレエを一時中断し、大学院進学後に<研究>という名目で世界最古のバレエ学校ができたフランスにも行き、ダンス修業をしました。フランスでコンテンポラリーダンス、クラシックバレエを指導していただいた先生方への御恩もいつも忘れていません。
一番お世話になったブリジットというコンテポラリーの先生が私に言った言葉「愛子、芸術は与えること」という言葉は生涯の宝物です。
あと、ブリジットは「私があなたに与えたと思うことやフランスで吸収したことを、帰国してより多くの人に伝えることが、私たちへの恩返しよ」と。

このブリジットの言葉を実践したいと思います。
いまでもバレエを続けられていることが本当にありがたいですし幸せです。
続けているからこそ、新しい道も拓かれるという実感があります。
その環境を与えてくれてる家族にも感謝しています。そして、バレエやダンス、芸術を通じて出会うことができた素晴らしいアーティストの方たちや指導者の方たち、研究する上でさまざまなヒントを与えてくださる知性あふれる方たちにも、いつも心を込めてレヴェランス(お辞儀)をしたいです。

これからもバレエの歴史について書いたり、お話しをしてゆくのはもちろんですが、トレーナーとしての技術や心のあり様もっと高め、ダンサーや指導者の方たちの助けになるような存在にもなりたい、と強く願うこの頃。
トレーナーになろうと思ったきっかけも母の闘病生活でした。
ガン末期になりベッドから動けなくなった母の手首や足首を動かす運動を教えたら、喜んでやっていました。少しでも身体を動かすことで、完全に動けなくならないようにしようという本能でした。その思いと身近な家族のケアということも考えて、トレーナーの勉強を始めたのは数年前です。まだまだ、経験も学びも足りませんが、私を指導してくれているトレーナーさんたちも常に学んでいますので、私もそうありたいです。

そして、今の強い願いは、若い人たちの才能が開花してゆくプロセスを見守り続けたいということ。
それは、バレエに限らず、さまざまな場面でそのような気持ちがとても強くなっている新春です。
奇しくも今日は、入籍記念日となり、25年目となるようで、この日に新春初の文章を書けたのも何かの流れでしょうか。

皆様と2018年もたくさんの美しいこと悦びを共有できたらと願っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

騎士道から宮廷バレエへの発展

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© Musée du Louvre/A. Dequier – M. Bard

こちらの絵は、1581年9月24日に開催された国王アンリ3世の寵臣ジョワイユーズ公の結婚の一連の祝祭行事で催された舞踏会の様子で、パリのルーブル美術館に所蔵されています。『王妃のバレエ・コミック』を含むマニフィサンス(華燭の盛儀)と呼ばれた宮廷祝祭の行事の一つです。『王妃のバレエ・コミック』の上演が10月15日なので、少し前の開催ということになります。この一連の祝祭において、ヴァロワ朝の祝祭が最高潮に達したと言われています。そして、のちに太陽王=ルイ14世というイメージになりますが、この時代の国王アンリ3世こそアポロン(太陽神)に扮した初めての王と言われています。王侯貴族の婚礼行事の祝宴は、基本的に長期間にわたって開催されました。10日間から数週間という長い時間、婚礼に関する行事が続くというもので、その行事の一環として、このような舞踏会が催されていたのです。

この絵の中心でダンスを踊っているカップルは、もちろん新郎新婦のジョワイユーズ公アンリとマルグリット・ド・ヴォーデモン嬢。左手の天蓋の下には、左からアンリ3世、母后カトリーヌ・ド・メディシスが座っています。新郎新婦の方を指さして、ひときわ存在感を放っている印象です。最新の研究によると、この新郎新婦が踊っている踊りは、パヴァーヌとのことで舞踏会の始まりを告げるダンスとして踊られていたようです。新郎新婦の右側には音楽隊が演奏しているのが見えますね。リュートを弾く三人の楽師がいます。民俗舞踊としては、早い速度で踊られていたパヴァーヌの音楽は、主にオーボエ、サックバット(トロンボーンのような楽器)、タンバリンなどで演奏されていましたが、宮廷舞踊に発展する中で、歩くような速度に変化し、楽器もリュート、チェンバロ、ヴィオラ・ダ・ガンバなどに代わっていったとのことです。では、1580年代のフランス宮廷で流行った音楽を聴いてみましょう🎵

音楽へのリンクはこちら

このブログを公開してから早半年。イタリア・ルネサンスの舞踊に始まり、ようやく、フランスのヴァロワ朝までたどり着きました。フランス革命以前までのヨーロッパのバレエの歴史は、あくまでも、貴族や王族の庇護のもとに発展していったと言えるでしょう。その発展の根底には騎士道がありました。<宮廷バレエ>は、一連の騎士道の壮麗な儀式の中で発展したのでした。カトリーヌ・ド・メディシスの御輿入れ以前にも、フランスのリールで1495年に開催されたフィリップ善良王の祝宴についての宮廷祝祭の記録は残っていますが、彼女がもたらした豊かなイタリア仕込みの芸術的手腕とフランスの人文主義者の音楽活動や詩の融合によって、一層絢爛豪華な祝祭の形式がフランスで誕生したのでした。

私は、フランスにおけるカトリーヌ・ド・メディシスの宮廷祝祭へのエネルギーの注ぎ方を知ってから、カトリーヌ・ド・メディシスという一人の女性の生い立ちが気になり、伝記を紐解くことから始めました。個人的な見解ですが、幼少期をどのように過ごしたかということが、多かれ少なかれ、その人の人間形成の過程に影響を与えると考えているからです。

「フィレンツェの名門メディチ家の血筋として生まれ、フランス王家に嫁いだ姫君」という華やかな表現からは、少し遠ざかった幼少期でした。生まれてすぐに両親を失い、メディチ家の血筋とはいえ女児なので、メディチ家の世継ぎとは認められなかったかったのです。メディチ家出身の教皇クレメンス7世の後ろ盾のおかげで、修道院に入ることができ、そこで豊かな教養を身に付けたのでしょう。14歳でフランス王に嫁いだものの、その王にはすでに愛人がいたのです。異国から嫁ぎ、待望の世継ぎを産むまでに10年以上もかかった彼女の宮廷での立場は、どれほど苦しかったことでしょうか。1559年に夫アンリ2世が急逝した後に、政治の表舞台に押し出されたカトリーヌが祝祭に心血を注いだその胸の内には何があったのでしょうか。国情に目を向ければ、新旧宗教の対立が激しく、対外的にはスペインやイギリスとの関係にも気を配らなくてはなりませんでした。国の財政は破たん状態。宮廷内にも陰謀が渦巻き、身内である子どもたちの間にも不和がありました。そのような渦中にいたカトリーヌが非人間的な手段をとることで、事態の解決を図ろうとしたことも事実でしょう。「血の婚礼」と呼ばれる娘のマルグリット・ド・ヴァロワとプロテスタントのアンリ・ド・ナヴァールの結婚の祝祭が、サンバルテルミーの大虐殺を引き起こし、その首謀者としてカトリーヌは歴史に汚名を残したような印象があります。しかし、彼女が一番強く望んでいたことは、平和でした。そして、この大虐殺の首謀者説も正確にはわかっていないとのことです。彼女にとっての「平和に向かった政治」が祝祭という形式によって表現されていたとは考えられないでしょうか。

なぜならば、その祝祭の実行者の一人として、重要な人物にアントワーヌ・ド・バイフという詩人がいました。彼は、ヴァロワ朝の祝祭に関わり、詩を主催者に献呈していました。このバイフという人物は、カトリック・プロテスタント両派の音楽家が一緒に活動する「詩と音楽のアカデミー」の中心人物でした。バイフやこのアカデミーに属する芸術家たちが、宮廷祝祭の芸術的発展に大きく貢献したといわれているのです。

その一例としては、「王妃のバレエ・コミック」が開催された婚礼の祝宴の直後に、バイフが『道化師たち』という詩を新郎のジョワイユーズ公(カトリック派)に献呈していました。ジョワイユーズ公が仕える国王アンリ3世がカトリック派の方に狂信的に接近していることを危惧してのことでしょう。そこに描写されたのは、宗教戦争、異端審問、宗教問題におけ武力行使に対する強い非難であり、道徳を改善して世界中に慈愛の念がもっと広まるようにという訴えでした。なんとも詩人の語る言葉は、時代を超える普遍的な価値を持つのでしょうか。今の時代に生きる私たちの心にも響く言葉ではありませんか。

最後に、当時の回想録を残したブラントームの言葉をお伝えいたしましょう。

「カトリーヌは国家的な催しものを行うことで、古代ローマ人に倣い、かくしてさらなる不和をもたらすさまざまな動きを回避しようとしたのであった。ところが悲しいかな、カトリーヌにとってこの方策は一種の妄想であった。しかし、20年以上にもわたって、騎士道に彩られた祝祭を催し、断続的にもカトリックとプロテスタントの手を結ばせることが、彼女の主たる関心のひとつだったのである。そして、その祝祭の主題は、フランス王家に対する忠誠と平和の恩寵にあった。」

「宮廷バレエ」はカトリーヌ・ド・メディシスの庇護のもと誕生し、17世紀のフランス王ルイ14世、太陽王の宮廷でさらなる発展を遂げることになるのです。

【参考文献】

1、パヴァーヌについて~『ダンスと音楽~躍動のヨーロッパ文化誌』

クレール・パオラッチ著 西久美子訳 株式会社アルテスパブリッシング刊 2017年

2、祝祭について

~『ルネサンスの祝祭~王権と芸術』ロイ・ストロング著 星和彦訳 平凡社刊 1987年

~『ヴァロワ・タピスリーの謎』フランシス・イエイツ著 藤井康生、山田由美子訳  平凡社刊 1989年

~『大世界劇場~宮廷祝宴の時代』R.アレヴィン/K.ゼルツレ著 円子修平訳

法政大学出版会刊 1985年

3、カトリーヌ・ド・メディシスについて~『フランス・ルネサンスの人々』渡辺一夫著 岩波文庫 1992年

 

世界平和への賛歌!映画『ダンシング・ベートーヴェン』まもなく公開!~愛子の小部屋vol.2

 踊る『第九』の舞台裏!アランチャ・アギーレ監督『ダンシング・ベートーヴェン』

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「人はしょせんちっぽけなんだ。今の時代、SNSで自分はこうだとか、こうしたとか皆書いているけど」とベジャール・バレエ・ローザンヌの芸術監督ジル・ロマンは娘との対話の中で、厳密な言葉ではないけれど、このように語っていた。とても心に突き刺さる言葉であり、素直に受け止められる言葉だった。きっとジル・ロマンは「だからこそ、小さなひとりひとりが手と手を取り合って、宗教や人種の壁を取っ払って前に進んでいこう」と伝えたいのではないか。そして、モーリス・ベジャール亡き後のベジャール作品の継承という重責を担い、真摯な姿勢でベジャール作品を残すことに専念している。しかも、今回は『第九』だ。スケールが違う。強い意気込みと覚悟を感じた。

ダンサーたちもそれに応えるべく、過酷なリハーサルをこなす。過酷だけれど、こころは一つだ。「踊ることが歓喜であり、それが人生」。長いリハーサル期間には、さまざまなことが起きる。主要ダンサーのシャルキナの妊娠。ジル自身、妻のキーラが在団中に妊娠し、マリヤを産んだ。歴史は繰り返される。そして、新しい命の誕生は「歓喜」そのもの。それでも、現実的に芸術監督としての立場では、シャルキナの降板はかなりの痛手。しかし、代打で登場する素晴らしいダンサーがいるのがベジャールのカンパニーだ。

次第に、ジルとベジャールが私の中で重なってくる~椅子に座ってダンサーたちに指示を出すジルのたたずまい、視線が、30年前に見たベジャールのドキュメンタリー『アダージェット~モーリス・ベジャールの時間』の中のベジャールと交錯する。20世紀バレエ団とベジャール・バレエ・ローザンヌの歴史がつながってゆくような感覚。ブリュッセルの「20世紀バレエ団」からローザンヌで「ベジャール・バレエ・ローザンヌ」として再出発したのには、何の意味もなかったのだろうか。

ローザンヌの街の歴史が、映画のオープニングに語られる。宗教的な背景にカタリ派との関係が伝えられた。大聖堂のステンドグラスは、円と正方形の図形で構成されている。ベジャールの『第九』の舞台には、その図形が描かれている。円は、永遠であり神の象徴、正方形は、現世であり人間の象徴である。円と正方形の融合した図形は、何を意味するのだろう。神と人間の融合、聖と俗の融合、善と悪の融合とも感じられた。相反の合は、宇宙の原理ではないか。

そして、ベジャールがこよなく愛した国、日本の東京バレエ団との共演がゴールだ。東京ではエキストラのダンス経験があるような人もない人も混ざってのリハーサルは困難を極めるが、彼らの参加は必須。まさに、モーリス・ベジャールとベートーヴェンが求めたのもその世界、すべての要素の融合。言葉と舞踊と音の魔術師モーリス・ベジャールが目指す世界と、ベートーヴェンとシラーが第九に込めた願いが見事に視覚化される。この壮大なスペクタクルの指揮をするのはズービン・メータだ。彼もまた、国籍や人種の壁、過去の負の遺産を芸術で取り払ってきた人物だろう。そして、演奏がイスラエル・フィルだ。

イスラエル!奇しくも、この映画の試写を見た日に飛び込んできたニュースは、トランプ大統領が「エルサレムをイスラエルの首都に認定する」というものだった。この地こそ、宗教、人種の問題を常に抱えている。このオーケストラによる演奏である意義を改めて、この映画を見る人すべてが共有することだろう。そして、世界平和をもっと強く念じ、地球一丸となってもっともっと小さな力を結集しなくてはならない。

ベジャールがベートーヴェンの第九に与えた四元素。第一楽章が「地」、第二楽章が「火」、第三楽章が「水」、第四楽章が「風」。地球上の4つの人種と4つの大陸を表しているという。音楽と言葉と動きによって「人類皆兄弟」というテーマが伝えられる。ナビゲーターのマリヤ・ロマンの問いかけに対し、父ジル・ロマンの言葉、母キーラの言葉、ベジャール・ダンサーたちの言葉が、それぞれの物語をつづる。作品は、ベジャールとベジャールダンサーたちの人生の物語だ。そこには、過去に『第九』を踊ったベジャール・ダンサーの影も感じる。ジョルジュ・ドンの魂が、一瞬、第四楽章の中心的ダンサー、オスカーに降臨したように感じた。

ベジャールにとって「言葉と動きの調和」によるエネルギーの強さが、作品の根幹となっているとのこと。時を超え、国境を越え、あらゆる、区別を超えて、そこに音が加わって、一大宇宙を生み出す『第九』。地球に生きる人すべてに贈られる歓喜の賛歌『ダンシング・ベートーヴェン』!

オフィシャルサイトはこちらから http://www.synca.jp/db/

12月23日(土)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMA他全国順次ロードショー

振付:モーリス・ベジャール
監督:アランチャ・アギーレ
音楽:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲『交響曲第9番 ニ短調 作品125』
出演:マリヤ・ロマン/モーリス・ベジャール・バレエ団:エリザベット・ロス、ジュリアン・ファヴロー、カテリーナ・シャルキナ、那須野圭右、オスカー・シャコン、大貫真幹/東京バレエ団:上野水香、柄本弾、吉岡美佳/クリスティン・ルイス、藤村実穂子、福井敬、アレクサンダー・ヴィノグラードフ、栗友会合唱団 ジル・ロマン(モーリス・ベジャール・バレエ団芸術監督)、ズービン・メータ(イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督)
配給:シンカ/宣伝:ブリッジヘッド  協力:東京バレエ団/後援:スイス大使館
2016/原題:BEETHOVEN PAR BEJART/83分/スイス、スペイン/フランス語、英語、日本語、スペイン語、ロシア語/カラー/1:1.78/ドルビー・デジタル5.1ch/字幕:村上伸子、字幕監修:岡見さえ

 

 

バレエは貴族の気晴らし?

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« Source gallica.bnf.fr / BnF »

~芸術政策としての宮廷バレエの集大成~

この図は、ちょうどルイ13世が国王に即位する年の1615年に描かれたルーヴル宮殿の様子です。スイス生まれで、ドイツを拠点に活躍したマテウス・メーリアンという今でいうイラストレーターの手によるものです。皆さんがご存知のルーヴル宮殿、つまりルーヴル美術館となっている建物とはずいぶんと様子が違いますね。もちろん、ピラミッドなんてありませんし、何代もの国王によって増築されていまの姿になったことがよくわかります。ルーヴル宮殿の一番古い部分は、この図の上部中央にあるいくつかの塔がある部分のようです。一番手前の方に庭園のように見えるのがチュイルリー庭園のようで、庭園に面した建物の部分がチュイルリー宮殿となります。

カトリーヌ・ド・メディシスが宮廷祝祭を開催した時代(1580年前後)とは少し姿が違うかもしれませんが、その祝祭が催された宮殿やその周りの雰囲気をお伝えしたいと思いました。

ちなみにメーリアンの地図の全体像はこんな感じで、この地図からもいろいろなことが読み取れると思います。印刷技術がどんどん進歩していて、このような版画家、イラストレーターといった仕事も成立していたとも考えられます。いつの時代も技術の進歩が新しい職業を生み出すということがあります。

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« Source gallica.bnf.fr / BnF »
さて、本題です。バレエ史、演劇史でよく登場するスペクタクルについてお話ししましょう。最初にご紹介したルーブル宮殿の地図を見ていただけますか。1573年(まだシャルル9世の治世)にカトリーヌが主催した『ポーランド使節のためのバレエ』が上演されたのが、地図の下の方のチュイルリー庭園に面したチュイルリー宮殿でした。『ポーランド使節のためのバレエ』に関して詳細は、11月7日付けの記事『バレエ今昔物語』でお伝えしていますので、そちらも覗いてみてください。

そして、今回お話するのは、1581年に開催された『王妃のバレエ・コミック』という壮大なスペクタクルについてです。その豪華な催しは、最初の地図の古いルーヴル宮殿のちょっと上、セーヌ川沿いのEscolle St.Germainと書かれた通りに面した小さな建物がLe petit bourbonと呼ばれたところで開催されたのでした。

ジャジャ~ン!バレエ史の本を一冊でもお持ちの方なら、この版画を目にしたことがあるのではないでしょうか。これが『王妃のバレエ・コミック』という上演作品の一シーンの図で、1581年ルーブル宮殿のプティブルボンの間で催されました。

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« Source gallica.bnf.fr / BnF »
このスペクタクルに関しては、バロック・演劇の研究の立場、音楽研究の立場、「政治と芸術」という歴史研究の立場、そして、舞踊史研究の立場からさまざまな見解が示されています。それらの見解を踏まえて、私なりにこの『王妃のバレエ・コミック』についてお伝えしようと思います。

まず、このスペクタクルのタイトルである『王妃のバレエ・コミック』の王妃は誰か?といいますと、時の国王アンリ3世(ヴァロワ朝最後の王)の王妃ルイーズ・ド・ロレーヌのことです。アンリ3世の妃が妹のマルグリット・ド・ヴォーデモン嬢と国王の寵臣ジョワイユーズ公の結婚を祝福するために主催したものでした。

1560年代から姑のカトリーヌ・ド・メディシスが、政策として宮廷祝祭を催し、巨額な費用を費やしました。では、なぜ、宮廷祝祭に巨額な費用を使ったのでしょう。スペクタクルは、政治のことを表現するためには重要なものでした。カトリーヌが生きた時代は、政治的、宗教的陰謀が渦巻いていました。ですから、貴族たちの気を常に何かに向けさせる気晴らしが必要でした。つまり、謀反や暗殺などを回避する策の一つです。対立関係にあるものたちを一堂に一つの場に集めて、理想の国家のあり方を共有する場として、祝祭を催すことはカトリーヌにとって重要な仕事だったのでした。大きなイベントには必ず野次馬たちが集まります。彼らもまた、王権のメディアとしての役割を担っていたことでしょう。

カトリーヌ・ド・メディシスが、「虹が平和と静謐をもたらす」というモットーのもとに心血を注いできたのが、祝祭でした。その集大成とも言うべき催しが『王妃のバレエ・コミック』となり、『母后のバレエ・コミック』とならなかったというのは、カトリーヌにするとどのような気持ちだったのでしょうか。

とはいえ、図にも描かれていますが、中心に立つ登場人物の男性に面して、三人の大きく描かれている人物が見えますでしょうか。中央が国王アンリ3世、その右隣にはボ母后カトリーヌがしっかりと座っていて、王の左隣には花婿となる王の寵臣ジョワイユーズ公が座っています。王妃は、この作品の中で自ら踊ったので、この玉座にはいません。

そして、この上演される空間は、仮設のもので、出し物ごとに作り替えられていました。私たちが「劇場」と認識している空間とは違い、観客と演者が未分離の状態のアリーナのような感じです。観客も作品の一部となり、舞台装置や音楽隊なども観客との一体感を作るために配置されていました。

左手の「金色の円天井」と呼ばれる星が散りばめられた雲の中に楽師と歌手たちがいます。「金色の円天井」の反対側には、牧神が住む藪があり、そのうしろに小さな洞窟があり、その中にも楽師がいます。音響的な配慮が行き届いて言いますね。版画には見られないのですが、上方天井からは雲が吊られ、その雲に乗って神々の王が降りて来たりという装置になっていたようです。玉座から見て、真正面奥には人工庭園らしき三連のアーチが見え、アーチの真ん中に邪な魔法使いのキルケが座っています。

登場人物たちの出入りは、人工庭園の横の通路からで、さまざまな神話の中の登場人物に扮した貴族たちがバレエや芝居を披露するのでした。

このスペクタクルは「バレエ・コミック」と言われていますが、私たちの感覚からすると「オペラ」に近いものです。「バレエ=言葉のない舞踊劇」というイメージがあるかもしれませんが、そのようなバレエのスタイルが定着するのは19世紀に入ってからと言ってもいいでしょう。つねに、バレエは言葉や歌と一緒に存在していたという歴史の方が長いのです。

バレエには必ず台本があります。皆さんが良くご存知のチャイコフスキーのバレエにも台本はあります。そして、この『王妃のバレエ・コミック』もきちんと台本が残っています。その作者はイタリア人のバルタザール・ド・ボージョワイユーという人で、1573年の『ポーランド使節のためのバレエ』の台本も手掛けています。ボージョワイユーは、このスペクタクルで「バレエの演劇化、幾何学的舞踊と劇的な筋の一体化」を図りました。「音楽、詩、舞踏、絵画」という四要素の総合芸術としてのバレエの提案でした。

詩を担当したのは国王付司祭ラ・シェネ師、音楽を王妃の側近で、宮廷内で音楽の専門家が評価しているシュール・ド・ボーリュー氏に依頼。演奏は、国王付室内楽団。絵画(舞台美術)に関しては国王付画家ジャック・パタン先生とのこと。皆さんがご覧になっている図版もジャック・パタン先生の絵です。そして、舞踏の振付は、ボージョワイユーが担当。結婚式まではあまり日がなかったらしく、かなりあわただしい作業となったとのこと。

そして、「バレエ・コミック」と名付けた理由は、当時の「バレエ」という言葉がイメージさせることが、演劇性に乏しい、「何人かの人々の幾何学的融合」というものだったからでした。ボージョワイユーは、「私はバレエを活気づけて語らせ、コメディ(演劇)を歌わせて演劇らしくした」と言い、バレエにおける演劇的な筋立ての重要性を求めたのでした。では、その演劇の筋はどのようなものだったのでしょうか。

物語は、魔法使いキルケの魔法による人間との戦い、その勝利と敗北について語られます。図版に描かれているシーンは、キルケの魔法の館と庭園から逃げ出してきた騎士オデュッセウスが王に助けを求めている場面です。フランスに平和と調和と新たな黄金時代に導くように頼みます。魔法使いキルケは、男を惑わす邪悪な存在で、人間の世界を悪と欲望の世界へと変えようとします。それに対抗して、さまざまな美徳と理性の天使たちがキルケを倒そうとしますが、力及ばず最後に国王がギリシャ神話の神々の王ゼウスにたとえられ、最後にキルケから魔法の杖を取り上げ、混乱した世界に秩序を取り戻すという国王礼賛のお話です。最後には、グラン・バレエが踊られ、その中には王妃もいて、王妃が国王にイルカ(dauphin=王子の意味もある)を描いた象徴的紋章を贈り、皇太子の誕生を願ったということです。

このようなギリシャ神話やローマ神話を題材にしたスペクタクルの伝統は、18世紀末のフランス革命まで続きます。王権による統治を神話的な世界にたとえる習慣があったのです。

観客たちは、物語の進行と同時に、壮麗な音楽と効果的な舞台装置によって、まるで自分も劇の登場人物の一員となったような錯覚に陥ったことでしょう。そして、王家の人たちが平土間に座り、観客たちが幾何学舞踊が良く見える高いところに配置されたことも計算されてのことだったのでした。秩序の保たれた幾何学的な世界を見ることで、「自分たちも安定した王国の一員である」という意識が高められたかもしれません。

スペクタクル自体は5時間半続き、夕べのエンターテイメントとしての結婚の祝祭は10時間半にも及んだといいます。また、婚礼行事は、宮廷の慣例として二週間ほど続くもので、このジョワイユーズ公とド・ヴォーでモン嬢の婚礼の祝宴も例にもれず9月19日には開始されていたようです。次回は、この長期間に渡る祝祭の流れの中で開催された舞踏会の様子をお話しいたしましょう。

<参考文献>

1、伊藤洋著『宮廷バレエとバロック演劇~フランス17世紀』早稲田大学出版部

2、ロイ・ストロング著 星和彦訳『ルネサンスの祝祭~王権と芸術』上巻 平凡社

 

 

 

 

愛子の小部屋 vol.1~クリスマスと言えば?

               

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                                                            ~クリスマスと言えば?~

「大河ドラマみたいなのずっと書いてるの辛くないですか?」と周りが気遣ってくれるもので、ちょっと峠の茶屋かはたまた旅籠屋か(古い!)、今風にカフェでティーブレイク的なものを書いてみようと「徹子の部屋」ならぬ「愛子の小部屋」シリーズを設けてみました。

街は、ハローウィーン過ぎると、すぐさまクリスマス仕様になります。そして、スーパーなどでは、クリスマスツリーとお正月のお飾り類が共存という、摩訶不思議な光景が当たり前になりつつある日本の年末であります。

結構好きなんですよね。このシーズンの街を行き交う人々の雰囲気が少し緩むような気がする。ボーナス入るからか、少しお財布のひもも緩み、クリスマスプレゼントを恋人、家族、自分へのご褒美に選ぶ時の人々のオーラってキラキラしてていいな~と思うわけです。

前置き長くなりましたが、一応バレエのお話としては、クリスマスと言えば『くるみ割り人形』というのがベタですが定番。それに、なんともあの音楽も毎年聞くくせに懐かしくなるんです。

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そこで手持ちの『くるみ割り人形』のDVDを見るのも良いし、これからのシーズンいろいろなバレエ団で『くるみ割り人形』は上演されるでしょうから、ぜひ、舞台をできれば生オーケストラで見ていただきたいのですが、どうしても時間もチケット代も乏しいという方におすすめなのが、このDVDです。

数ある『くるみ割り人形』の中で、何が違うかというと1892年にサンクト・ペテルブルクで初演された当時の装置、衣装を復元し、振付、演出も限りなく初演版に近い形でベルリン国立バレエ団が上演したものなのです。

<このDVDの主要キャスト>

クララ(大人)、金平糖の精:ヤーナ・サレンコ

くるみ割り人形、王子:マリアン・ヴァルター

ドロッセルマイヤー:ミヒャエル・バンツハフ

ネズミの王様:Arshak Ghalumyan

クララ(少女):井関エレナ

フリッツ:Linus Schmidt

ネズミの王様とフリッツの方のお名前のカタカタ表記がわからないので、原語で失礼しました。個人的にはドロッセルマイヤーのバンツハフの表現が非常に好みでして、いわゆる老紳士という雰囲気を強調することもなく、異界の人物感は十分に発揮されています。あと、王子の衣装がどうしてもスーパーマンに見えるのは私だけかしら(笑)少女クララ役の井関エレナさんは、ちょっと自慢しますけど、去年一緒に舞台に立ちました。このクララ役の時からはずいぶんと成長され、最近国際コンクールなどでも受賞して、これからのご活躍がとっても楽しみです。

このDVDを見てあらためて『くるみ割り人形』の演劇性の高さを感じました。よく踊られるシーンは、第二幕のお菓子の国で、さまざまな国の踊りが披露されるシーンですが、第一幕のパーティの場面から雪の国へ、そして、第二幕へのつながりと音楽が見事に物語を伝えているということを実感するのです。

台本もあるのでそちらも併せてご覧になるとより面白いと思いますが、このベルリン国立バレエ団の復元版を手掛けた元ボリショイバレエ団の芸術監督でバレエ史家でもあるユーリー・ブルラーカとその協力者である振付家のワシリー・メドヴェージェフ。この二人は、一緒にいくつかの帝政ロシア時代のバレエの復元作業を手掛けている。アメリカのパシフィック・ノースウエスト・バレエ団でのチャイコフスキーのバレエ作品をよりオリジナルに近い形でレクチャー形式で上演するものを見たことがあるが、かなり音楽とステップがシンプルでありながら、密接に関係性を保っていることがわかる。この復元でも、ブルラーカと音楽の専門教育を受けている振付家であるメドヴェージェフの二人の力が合わさって、こんなにも音と動きが自然に感じられのかと驚きを感じます。

よく考えると、『くるみ割り人形』の原作がホフマンで、ドイツ人ですし、物語の舞台も19世紀のドイツなので、ドイツのバレエ団で、初演版復刻という歴史的な作業が行われても不思議ではないのです。でも、このバレエ団にとってもっと大きいな理由があったようで、それが、この記事の冒頭に載せました写真の女性がキーパーソンなわけです。これは1892年初演時のドラジェの精(日本では金平糖の精)です。

彼女は、アントニエッタ・デレッラというイタリア人バレリーナで、1892年の『くるみ割り人形』の帝室マリンスキー劇場での初演でドラジェの精を踊ったバレリーナです。当時、彼女はベルリンの宮廷付きのバレリーナというポジションで、1879年から1909年までベルリンの劇場に籍を置いていました。その間に、ロシアのマリンスキー劇場に客演していたのでしょう。そして、1945年に彼女がなくなるときに、彼女は「自分の財産をダンサーのために使うように」と望んだとのこと。その彼女の財産を元に、ベルリン国立劇場は、財団を設立したのです。

デレッラとベルリンの劇場との関係についてはこちら

謎の多いバレリーナ、アントニエッタ・デレッラですが、自分の財産を後進のダンサーたちのために寄付するとは、バレエダンサーの大変さを理解していたのかもしれません。そのような歴史的な背景から、このベルリン国立バレエ団で、『くるみ割り人形』が、デレッラが踊ったであろう姿を取り戻したと考えると、天国でデレッラが微笑んでように感じます。

クリスマスのひと時を大切な人たちと一緒にバレエをご覧になるのも良いのではないでしょうか!

★もっと詳しく『くるみ割り人形』について知りたい方はこちら↓

平林正司著 『くるみ割り人形』論 三領書房

初演台本からさまざまなバレエ団の演出の違いについても細かく分析されています。

 

 

 

今は昔、宮廷は軍隊だった!

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~フランソワ1世が1528年に増築したルネサンス様式のフォンテーヌブロー宮殿〜photolibrary

 

 

「何言ってるのこの人」って思うかもしれませんけど、毎日、出かけたら同じお家に帰ることって、当たり前のことですよね。でも、中世から16世紀の王侯貴族たちの生活って、もっと移動が多かったのです。今回の記事のタイトルにもつながるのですが、さまざまな芸術やら文化が育まれた「宮廷」は、動くものだったのでした。

少しそういうところから、自分自身の固定観念を外してみましょう。身分によっても生活の仕方は違います。農民は、土地と密接した生活だから定住していたでしょう。君主やその周りの貴族たち、いわゆる、支配階層であり、「宮廷」を構成する身分の人たちにとっては、野営から野営、もしくは、城から城へと移動するのが、ある意味仕事だったわけです。

20世紀の日本に生まれ、21世紀に生きている私のような一か所に定住する人間の発想やものの考え方、衛生観念、死生観などあらゆることが、古い時代のことや異国に住む人たち、異なる宗教の人たちと関わる上で、時に誤解をもたらすことがあるので気を付けないといけないなといつも思います。

では、「宮廷=軍隊だった」とはどういうことか?ということをご説明したいので、カトリーヌ・ド・メディシスの義父フランソワ1世というフランス王の1533年の移動について書かれた資料があるので、そちらを参考にお話しいたします。

フランソワ1世は、1532年の12月から2月まで、パリのルーヴル宮殿で過ごしていました。3か月も同じ場所に留まるというのは、この当時の国王にとってはかなり珍しいことだったようです。3月から王は旅に出ます。歴史家のリュシアン・フェーヴルが、1533年の3月から10月のマルセーユまでで王の移動経路を書くことを断念するほど、広範囲にわたって国内を巡ります。

まずはパリから北に向かい、その後、3月末には東のシャンパーニュ地方に向かいました。戴冠式の街ランスに数日間滞在し、4月19日には、パリ近郊に戻り、王が中世の城塞を増築して建てたフォンテーヌブロー宮殿で1週間を過ごします。4月26日には南下し、ちょうどフランスの六角形の中心部にあるブルボネ地方を巡回する行程に入り、ムーランという街に5月16日に到着し、4日間滞在しました。5月26日にはリヨン到着。リヨンに奇跡的に1カ月滞在し、その近郊を巡回して、6月末リヨン出立。リヨンから真西に約160キロのところにあるクレルモン・フェランに7月10日到着。その街を拠点に放射線状にオーヴェルニュ地方を一週間視察しました。

こんな調子でさらに南下し、ニーム、アヴィニヨン、アルルなどのプロヴァンスの街に向かい、10月のマルセーユまでと移動が続くわけで、マルセーユで終わるわけでもないのです。

フランソワ1世は、御年39歳で、ま~老人ではないけれども、昔の年齢の感覚から言うと初老に入ってる時期でしょう。非常に女性関係も多いですし、芸術や文化への造詣も深い王様ですから、かなり精力的な方であったことは間違いないです。それにして、この移動。もちろん、鉄道も車もありませんので!

そう!そして、この王に同行するのは「宮廷まるごと」です。歴史家フェーヴルの言い方を借りると「宮廷はくっついて歩いているのである」と。つまり、「キャラバンであり、より正確には、宿営を重ねる軍隊である」と。

まずは、王より先に宿営を設置する設営隊が、目的地に王が到着する時には、宿営が準備万端になるように出発しました。設営隊に同行するのは、王の料理係の集団~調味係、肉調理師、菓子職人~が、騾馬にまたがり出発しました。地元の一般の民家、貴族の館などが宿営地として確保されました。しかし、ほとんどの場合、国王はどこでも組み立てられる専用の大天幕の中で過ごして、ご満悦だったようです。

次に、本隊の出発。国王とその随行メンバーは、近衛兵、用人、侍従職貴族。彼らが街を通過するときには、教会は鐘を鳴らし、農民たちは仕事を止めて、国王のキャラバンのもとに駆けつけました。華やかな騎馬の一隊の中央に、籠に乗った国王がいました。それに続いて貴婦人たちも、王様を見習い、野戦の兵士のような生活をしていました。どうやら、このような移動の生活にも徐々に慣れて、楽しんでいたといいます。しかしながら、軟弱な定住生活者のわたしのような人間が、安楽だと感じる生活ではないことは間違いない。ただ、私が知っている安楽と感じる感覚を、彼女たちは経験していないということも想像します。

こんな生活の中で、女性たちがたくましくなってゆくのもわかるでしょう。16世紀に描かれた女性たちの肖像画などを見ても、もちろん美しく描かれているものもあります。当時の人たちは、「目に麗しい」と表現しているのです。でも、これもフェーヴル先生が、彼女たちの肖像画に対して、「われわれ自身の美的感覚を、いくら父祖の感受性に合致させようと努めてみても、この顔に色気も品位も優雅も美も見出すことはできないのである」と、かなり辛辣な言い方をしています(笑)

さて、再度「移動する宮廷」に話を戻して、どれほどの人数が移動したか?人だけではない馬や騾馬もです。12000頭の馬、3,4000人の男たちとそのほかに女性たち。結構、粗野な人たちもたくさんいます。すべてにおいて自給自足体制の軍隊のようなものでした。そこには当然、食糧供給のためのシステムも完備されていました。独占権を与えられた肉、野菜、パン、ワインなど各種小売商、そして、王を楽しませる芸人たちなども随行していたのです。

どうでしょう?少し「動く宮廷」のイメージが伝わったでしょうか。バレエを習ってる人やバレエ指導者の方なら、古典作品の物語に通じる宮廷や貴族の様子を垣間見ることができたのではないでしょうか。例えば、『ジゼル』の第一幕で、貴族たちが村を訪れて、ジゼルの家に立ち寄るところなどは、非常に想像しやすいですね。また、中世ドイツを舞台にしている『白鳥の湖』で、なぜジークフリートの父王がいないのか?というところなどの疑問にも、ある種の理由を見つけることができそうです。

最後に、フランソワ1世にちなんだお城をもう一つご紹介いたします。シャンボール城です。フランソワ1世は、イタリアでの戦いを通して、イタリアからたくさんの芸術家を連れ帰りました。その中の一人が、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチでした。1515年にミラノ公国を征服し、スフォルツァ家につかえていたレオナルドをフランスに招き、フランス・ルネサンス文化の繁栄をもたらしました。このお城の建設にもレオナルドが関わっていたのでした。

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シャンボール城-photolibrary

 

そして、こちらからはシャンボール城だけではなく、フランス、ロワール地方のお城巡りヴァーチャルツアーはいかがでしょうか!

詳細はこちらから

<お薦め映像>

14,15世紀のドイツの農村と貴族の様子が垣間見られます。映像用に作られたものなので、馬や動物たちも本物が登場し、狩りの様子など臨場感があります。貴族が狩りに出かけて、農村に立ち寄るシーンなどの理解の助けになるのではないでしょうか。DVDで見られます。

カルラ・フラッチ(ジゼル)、エリック・ブルーン(アルブレヒト)主演、アメリカン・バレエ・シアター出演

『ジゼル』1969年制作 フィリップス

次回は、フランソワ1世の息子アンリの嫁であるカトリーヌ・ド・メディシスの宮廷における、政治と芸術の融合の世界をお楽しみいただきます。